明治2年(1869)8月兵部省が設置され、翌3年3月その下に海軍掛と陸軍掛との分課が設けられました。
旧暦の明治4年(1871)7月28日に兵部省が海軍部と陸軍部に分けられ、この時、海軍部に第1秘史局、第2軍務局、第3造船局、第4水路局、第5会計局の5局が置かれました。
ここに、当時わが国の緊急課題であった日本沿岸の安全を図るための海図作りを使命とした水路局が始めて誕生したのです。
『昭和16年(1941)の水路部創立70周年記念事業を期に、その後、毎年7月28日を水路部の創立の日として制定していましたが、昭和46年(1971)の創立100年を期して、太陰暦から太陽暦に換算し、9月12日を創立の日とし、以後、この日を水路記念日としています。』
この頃は社外国の脅威があることから、日本沿岸の安全を守るためにも海図制作が急務とされていました。
当時の実務は、勝海舟らとともに長崎海軍伝習所においてオランダ式の航海・測量術を学んだ津藩出身の柳楢悦(やなぎ ならよし)少佐[初代水路部長]を中心として東京築地の海軍兵学寮(後の兵学校)の一室で、現在の水路業務の基礎がスタートし、日本人による近代的な海図作りが精力的に開始されました。
わが国における海図の第1号は「陸中国釜石港之図」で、明治5年9月に(旧暦8月)に完成していますが、これ以前にも、徳川時代から航路案内や海路図のようなものが作られていました。
例えば、徳川時代には海外渡航を禁止した鎖国政策の実施により、船舶航行の範囲を国内に限定したため、瀬戸内海を中心とした交易が主となりました。
そのため、航路案内や海路図は瀬戸内海のものが多く、慶安・承応年間(1648〜1655)から始まり、寛文のころ(1670)には木版刷りで刊行され、元禄年間(1688〜1704)にはその版種は数十種にのぼりました。
時代が移り変わった現在は海上保安庁海洋情報部として水路業務が行われています。
現在、海上保安庁はわが国周辺海域を中心として航海用海図を約750版刊行しています。近年では航海用電子海図も刊行し、国内外の船舶に利用されています。
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